皆さまはじめまして。吉沢と申します。精神科医・名越康文先生に師事し、名越式体癖論の講座「体癖はじめの一歩」の講師をしております。
自己紹介として、私の考えていることをお伝えしたいと思います。少しだけ耳を(目を)お貸しいただけたら嬉しいです。
私の願いは、感受性がちがっていることを常識にしたい、ということです。
私が名越先生のツイートをきっかけにゼミに行き、「体癖論って面白い!」と思うのと同じくらいに強く感じたことがあります。それは「自分と他人の感受性は全く違っている、ということを誰もが無視している」ということでした。
それは私が幼い頃から『なぜ、世の中はこんなにも苦しんでいる人で溢れているのだろう』と心を痛めていたことに原点があるように思います。
小学低学年の子が世界中の悲しみを背負って、苦しい子ども時代を送っていたとも言えるのですが、これはもちろん、人間ができていたから、ということではありません。もちろん、周囲に恵まれていたというのもありますが、幼さというのは、良きにつけ悪しきにつけ強い正義感を持ちあわせているように思います。
さて、苦しみのなかにいる人がいたとして、吉沢少女は何を考えたかというと、ずっと幸せな人もいなければ、ずっと不幸な人はいないはず。どうすれば幸せを感じる瞬間が増えるのか、でした。
高校のころ、学校で呼び掛けた経験のあったおかけで、大学時代、アフリカへボランティアに行く機会を得ました。『ああ、地球の裏側にいっても人というのは大して変わらないのだな』と確信したのはそのときです。その頃に出合っていたのが憲法でした。一人ひとりがそのままありのまま、価値のある存在なのだ、と書かれています。これだ!と思いました。ですが、それも憲法をよく知ろうとせずに拒絶する人がいると知りました。
誰かに貢献するために、医学や心理学というアプローチもありましたし、政治的、社会的な方法も考えました。私が何をすれば、少しでも世界の幸福の総量が増えるのだろうと思っていました。といっても、その間も自分のことだけで手一杯な時期もあります。私自身が楽しくなければ意味がありません。
その数年後、たまたま目に飛び込んできたのが本講座のツイートだったのです。それが体癖との出合いでした。参考にはならないかもしれませんが、これだ!!と直感したことは覚えています。
今もずっと、学びを心から楽しんでいることは間違いありません。体癖に出合ってからです。好きなことしかしない、と思えたのは。
人が人と出会う限り、体癖論はとても有用なツールになります。人間の悩みは対人関係にあるのですから。わたしとあなたが「違っている」と認められた瞬間、それぞれの抱える重荷はある程度降ろせるはず。
日本では「違っているのが当たり前」というのが意識されないほどに、ある意味、違いを許容してきたのではないでしょうか。その無意識的な認識は「みんな同じ」へとすり替わってしまった。同じ、と思ってしまうから苦しみとなるという事実は置いてきぼりにされました。
あまりにも苦しみのあふれる世の中で、苦しみをありのまま見つめるには、大きな勇気を伴うからです。
もし、相手と自分の感受性がこんなにも違うと知っていたらどうでしょう?そうすれば、相手への関心は、相手を尊重する気持ちと一緒にわいてきませんか?そう予感してしまったのです。
違いを認識して、どう行動するかは、その本人によります。みんなが優しくなるわけではないかもしれない。それでも、ひとりでも、一つでも、悩みの辛さから手を離せたらどんなに素敵なのでしょう。
吉沢