こんにちは。吉沢です。精神科医・名越康文先生に師事し、名越式体癖論の講座「体癖はじめの一歩」の講師をしております。
幼い頃は、世界を知っていくのが日課でした。生まれて、家族と出会い、幼稚園のお友達と出会い、草をちぎり、山に入ってカエルの卵をさわり、うさぎやチャボにえさをやり…、どんどん世界は外に拡がっていく。毎日ヘトヘトになって眠ったら、また次の日が来ていました。
外の世界に忙しかった頃を過ぎて、「自分は何者か」を知りたくなるタイミングがやって来ます。そして社会に出て働き始めると、今度は別の毎日につかれて眠ります。その毎日にしっくり来なかった人の中には「このままでいいのかな」と思う人もいるでしょう。
「自分は何者か」が見つからなかった
探究心のベクトルが自分の内側に向かうのは、人生のある時期、特に思春期において、成長の一環として育まれるものだと思います。
人生の中で何度も迷い、探すのは命を燃やしつくそうという真剣さだと思いますし、答えが変わっていくことも多々あります。
人間は常に相対性の中にあるわけで、思春期を経過してもなお、「自分のことを知りたい」というベクトルが強烈に起こっているとしたら、今が辛いということだと思うんです。
なぜこんなに辛いのか、周りとうまく行かないのか、自分のことがわかれば楽になるはず。そんな思いがあるのではないでしょうか。
ところが自分を知りたいという方こそ、自分をしっかり観察されている凄い観察力の持ち主だったりします。そのため、対する人によって違う自分がいることに気付いてしまい、本当はどんな人間なんだろうと悩まれるのです。
自分を見つめる力が非常に強いがゆえに、「確固たる自我」を探してしまう。実はその視野の中に答えがある。そのことに気が付くきっかけは、自分の内ではなく自分の外にあるんです。
体癖論の効用があるとすれば、一つには自分を知りたいエネルギーの一部が外部に向いていくきっかけになる、と言えます。「外にエネルギーを向ける」ということが肝なのです。
自分の知らない自分はどこにいるのか
自分のことに興味がある方は、体癖論に出合う前から、きっと探してこられたのだと思います。だとしたらもう少しだけ、探求してみませんか?それには、自分のために時間をかけられる方が向いています。
今はそれどころじゃないよという方は、別の方法が合うかもしれないので、どうぞご相談ください。
さて、どこにまだ見ぬ自分がいるのか。
それはなんと、自分と他人の間にいるのです。
体癖論で自分を見つける
皆さんはご自分のことが好きですか?
「おおむね好き」に沢山の方がなれるといいなというのが、私が体癖論を常識にしたい理由の根本です。ほとんどの人は自分を気に入っていて、気に入っていない、その両方を持っていると思います。他人をみても、気に入るところ、気に入らないところがあると思いますが、それは全て自分の感受性からみた見え方です。しかも常に相対的なんですね。
体癖論では少なくとも10種類の世の中の見方というのがあると知ります。体癖論を知らなければ、他の見方があるなんて想像もつきません。7種の人はまさか自分以外の人が「勝たないと意味がない」などと思わないなんて信じられないでしょう。3種は「好き嫌いで判断しないなら何で決めるの?」と思うでしょう。5種は「損得を考えない人なんているの?」と思う。それが、いるんです。
みんなが自分と同じ基準で良し悪しを決めると思っていたらとんでもない。異世界の住人に囲まれていたんだと気付いたら、そこが新たなスタート地点です。
私は体癖論を学んでみるうち、結果的に大らかになったなと思います。体癖を学ぶと、生活する中で起こる単発の出来事の中にある自分や他人の「特徴の一貫性」を理解しだします。
はじめ、どうしてもやってしまうことを自分の未熟さだと感じていたのに、それをすごいと言ってくれる人がいることに驚きます。あるいは、自分にはどうしてもできないことを当然のようにできる人、その本人はそれをつまらなく思っていることを知ることもあるのです。
自分のように相手が考えるはずという前提に立つと、大いに苦痛が生まれますが、自分こそ1/10の少数派であるとの事実が、悩みのいくらかは全く気に病まないでいいことだと教えてくれるのです。
私の話になりますが、それぞれの体癖を愛せなければ、皆さんにお伝えしたいとは思わなかったでしょう。「ここが長所でここは短所」そんな一般論は、体癖論によって根底から覆(くつがえ)るのです。
人間に興味があると、結果的に体癖を学ぶことに向いているというのはそういう意味です。そして今度は、興味が自分の外に向かっていくことで今まで知らなかった自分に気づきだします。悩んでいる人は悩む事自体がしんどいでしょうが、それだけ深い理解をしたいという質(たち)は、大きな可能性なのです。
萌えをみつける
「自分を知りたければ自分の外に出る」といっても、他人と直接交流しなければならないということではありません。その意味ではまず、自分一人のほうが外に出られるでしょう。つまり、自分の好きなこと【萌え】を見つけてみるということです。
講座で皆さんと音楽や映画や絵画などを通じて具体的に診断をしていくのは、何かと出会って生まれるご自身の炎色反応を見てもらいたいと思うからです。例えば、これは塩ですよと知ってはいても、それだけでは塩が燃えた黄色の炎まで知りようがない。9種はこういう雰囲気の人だよ、と言われても自分がどう感じるのかとは微妙に違ったりする。
その色合いを見つけていく中で、「自分」が「他人」をどう見ているのか、何に心惹かれ、どうしたときに生きるパワーが出てくるのか、何よりも自分のことがわかってくるのです。
。◕‿◕。(吉沢)