次回は 11/23(土)体癖講座

師匠をもつということ

こんにちは。体癖はじめの一歩、講師の吉沢です。今日は、師匠をもつということの意味をお話ししたいと思います。

これまで私は幸運なことに、地元を離れた各地で、父のような存在の方に出会い、育てていただいたように思います。また、仏教においては実際の師匠と弟子という関係でしか得られない口伝によって修行をする経験を経てきました。今回、東京に来て出会えたのが名越康文先生という師匠です。凄さを一言でいうことは困難ですが、特徴的なのはフラットであるということ。

名越先生はその存在として「横の関係」を見せてくださいます。アドラーを生きるというのがどれほど大変なことなのは、やってみて初めて分かることなので、いつかお話ししようと思います。

さて、師匠というと大仰に聴こえるかもしれませんが、皆さんにとっても先輩・先達という存在は身近なものだと思います。その中で、いつもいつも口出しするわけでもないけれど、自分も気付かないような人生の節目になるところで、厳しいこともしっかり言っていただける存在が師匠・メンターということです。「この人は」という方をメンターに持つというのは、自分の人生がいかに重層的になるか、成長できるか、に関わってくることです。

私が「体癖はじめの一歩」をやり始めるときには、正直、師匠がいる意味を今ほどはわかっていなかったと思います。ただ、道の先に居てくださる存在というのはいつも有り難く、師匠の顔に泥を塗るようなことはしたくないなあと漠然とした思いはありました。

私は銀座でカフェをやっているのですが、ある日、『カフェの宣伝をそんなにしないのはなぜなのか』という問いかけによって、気付いたのがこのテーマです。

カフェをやるのも、体癖論が広まって欲しいのも、私にとっては同じ道の表現なのです。でも、なぜ宣伝をするのに不思議と抵抗があったのかを考えたとき、一つにはメンターの有無が大きかったと感じました。

私は、どちらかというと肝が据わっているほうで、責任を取ることに抵抗は少ないと思います。なので、誰かを頼って、ということではないんですね。カッコつけているわけではなく、師匠が弟子の責任を取るなんて…、できることならそのようなものを取らせるような弟子にはなりたくないとは思います。

皆さんもご自身で何かを追求したり、楽しいと思うことをやっているとき、誰かにこの楽しさの責任を取って!なんて思わないと思うんです。自分にとって悪いことだけ責任を取ってもらうというわけにもいきませんよね。

師匠やメンターというのは、どういうものかを考えると、「具体的に何をしてくれるものでもない」のです。トートロジーになってしまいますが、それこそ、師匠やメンターであるということなんですね。(真実はちがいます。ものすごく、弟子の成長を祈ってくださっているんです。でもそれは、形として知ることができないことです。)

そうなんですよね。カフェには、具体的な尊敬するモデルがいなかったのです。でも、考えてみると、新しいことというのは未知のものですから私のやりたいこと自体にモデルはいません。人生の師匠たちに、少しずつ人間の輝き方を学んでやっていくしかない、というのかな。

【後ろ盾を持つという強さ】が発揮されるのが、「師匠」の弟子になるということです。それは同時に、一人で立つ覚悟を持つ、ということでもある。師匠は決して、寄りかかるものではありませんし、師匠の前では自分の恥ずかしい姿はモロバレであるがゆえに、よし!と奮い立つわけです。

尊敬し、信頼する、という感覚は理屈を超えています。自然と「一目置く相手と出会った」ということですから、そこから学べるというのは人生が何倍も濃く生きられるのです。

自分自身が目に見えるものとしか繋がれないときには、せっかくのメンターとの出会いも、その価値がわかりません。

自分には見えないものが師匠には見えている、という信頼があって初めて、師匠は弟子に「言っていいタイミングがきた=聞く耳を持った」と自分の見えていない、見たくない部分の成長スイッチを押してくださるんです。タイミングを待ってくれるというのも大きな特徴のように思います。

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師匠をもつことの先にあるのは、きっとこういうことだと思うので、お釈迦さまのエピソードを披露させてください。

お釈迦さまが亡くなられるとき、弟子がこう問いました。
「お師匠さまの亡き後、私は何を拠り所に生きてゆけばいいのでしょうか。」
お釈迦様は伏せたまま、「自灯明 法灯明」と答えられました。

自灯明というのは、自分をともしびとして、自分をよりどころとして生きていきなさい、という意味。そして、法灯明というのは、法(真理・お釈迦様の教え)をよりどころとして、他のものをよりどころにしてはいけません、ということです。

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ふつうの師匠・弟子にとって「自灯明」はあっても「法灯明」というものに当たるものがないのですが、私の師匠たちはすべて仏教徒でしたので、このお釈迦様のエピソードが浮かんだのだと思います。

求道するがゆえに出会うのが、師匠・メンターなのだと思います。

私の心の中に、あるお師匠の姿が浮かびました。その方はいつもニコニコと朗らかで、どんなに相手が小さき、幼きものであっても、その姿に学ぶという方でした。こどもながらに私はそれは真実であると感じました。大人になって、重い鎧を自分で着てしまっていても、いつでもその鎧を脱ぐことができるよ、というのを見せてもらったと思います。実際にお会いすることはありませんでしたが、今、この記事を書きながら、ありありと浮かぶ姿をお伝えしたくなりました。

誰かの弟子になる、というのは形ではなく、いま隣にいる人のすごさに気が付くことから始まるということなのだと思うんです。誰でも、誰かを師とすることができる。そういう人には、必ず良きメンター、良き師匠との出会いがあるはずです。

師匠をもつというのは、自分の人生をしっかりと生きている先輩と出会い、自分自身が謙虚になる機会をもらうことです。それは、より大きく生きろ、という贈り物が目の前に来ることです。その贈り物を、私もほかの誰かに還元します、という握手を交わせたら、その人から学ぶタイミングが到来したのだと私は思います。

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吉沢リリー
名越康文先生の弟子。
気軽に体癖論を知りたい方へ向けた講座「体癖はじめの一歩」を始めました。映画や音楽、漫才、落語、漫画に小説、Vtuberなど、好きなものは多くて長い、九州生まれの喋る人。
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