こんにちは。体癖はじめの一歩、講師の吉沢です。
「体癖こぼれ話」と題しまして、その時々の気づきをお話していきたいと思います。よろしければお付き合いください。
いつでも私たちは自分や居合わせた他人を勇気づけることができます。
他人と共に生きているという共同体感覚を、自我の観点から伝えたのがアドラーであり、もっと根源的に「諸法無我」と説いたのがお釈迦様です。
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「学問は段階を経るが、宗教はその先を云う」と、ある科学者がいいました。
私は以前、子どもながらに、いつか仏教に科学が追いつくのだろうかと感じたことを覚えています。量子力学の発展がそう感じさせました。既に説かれている世界を証明しようとしているように思えたのです。
未知のことを問われて「わからない」と言えるのは科学的態度です。
あるとき、実験で、“生じたかどうかわからないものの存在”について話題になり、研究者に意見を訊いたところ、こう言われました。
「それはわからない。何故ならAとBという理由から可能性が否定できない。今それが再現されていないからといって無かったとは言えない。」
私はそれこそが誠実な研究者たる態度だと得心したものです。
科学者は「真実」を探究していく者だといいます。そして、仏教徒は「真理」に向かって行じていく存在といえるでしょう。
真理も真実も常に目の前に開かれていますが、知覚出来るかどうかはその者によるわけです。
ですから、手を変え品を変え、方便の世界が展開していきます。
顕教のお経の中に、方便として様々な譬え話で仏の世界を記したものがあります。それを地続きだと思うかどうかは信心の度合いによって異なるでしょう。
科学との共通点で言えば、どちらも「信じる」ということが起点にあるわけです。
科学は、まだ知覚できていないものを『きっとあるだろう』と仮説を立てて立証しようとしていくわけですが、
今現在証明されていないが、ここまでは当然いけるだろう、出来るはずだ、そう確信を持っているからこそ、探究できるのです。
『想像できたら、それは実現する』とエチオピアでのボランティアから帰った私は話していたのですが、これも勿論、確信をもって現実と地続きだと言いたかったのです。
アドラー心理学では「目的論」で人が生きていると考えます。
目的に向かって生きているとは、人は、想像した未来を実現する行動をとっているということです。アドラーは人間の中にあるそれを発見しました。
偶然というのは、今の能力ではまだ知覚できないこと、というだけかもしれません。
吉沢
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